経営は判断から学べるか:第1回 学習する組織(全2回)
By 田村 誠一
「成果物の罠」を超えて
企業は長年、知識を蓄積し共有することで競争力を高めようとしてきた。しかし実際に組織へ残されるのは提案書や計画書といった成果物であり、そこに至るまでの問い、前提、選択肢、判断の変化は失われてきた。
AIによって成果物の手前にある思考の痕跡を扱える可能性が生まれた今、企業が残すべき資産は結論そのものではない。答えがどのように成立し、現実との接触によってどのように変化したのかという判断の履歴こそが、組織の学習を支える資産となる。
企業が通常継承しているのは知識ではなく成果物である。競争力を支えるのは過去の正解そのものではなく、その正解が生まれた条件を再検討できる状態である。
環境変化に強い企業とは多くの答えを蓄積した企業ではない。過去の判断が成立した前提を問い直し、状況に応じて答えを書き換えられる企業である。
AIの価値は知識を増やすことだけではない。これまで成果物の裏側で失われていた判断の履歴を、組織が学習に活用できる資産へ変えることにある。
長年担当していた営業責任者が退職した後、後任者が顧客を引き継ぐ。提案書も残っている。顧客との打ち合わせ記録も残っている。過去の受注案件も確認できる。それにもかかわらず、しばらくすると以前のように案件が進まなくなる。顧客との関係が悪化したわけではない。必要な情報が欠けているわけでもない。しかし、なぜか同じような提案ができない。顧客が何を重視していたのか、どこまで踏み込むべきだったのか、どのタイミングで判断すべきだったのかが分からなくなる。
同じことは新規事業でも起こる。事業が撤退しても、事業計画書は残る。投資稟議も残る。進捗会議の資料も残る。それでも数年後には、別の部署で似た失敗が繰り返される。市場環境も顧客も異なるため、表面的には別の問題に見える。しかし意思決定の過程を振り返ると、どこか見覚えのある経緯が現れる。
企業は経験を失わないために、多くのものを残してきた。報告書を作り、議事録を管理し、成功事例を共有し、失敗事例を蓄積し、ナレッジデータベースを整備してきた。それにもかかわらず、多くの企業には拭いきれない感覚が残る。以前にも同じ議論をした記憶がある。過去にも似た失敗を経験したはずである。成功事例も共有されている。しかし、その経験が十分に次へつながっているとは思えない。資料は残っている。情報も残っている。それでも経験は思うように継承されないのである。
問題は、企業に知識がないことなのだろうか。あるいは知識共有の仕組みが不足しているからなのだろうか。私たちはこれまで、企業が残してきたものを当然のように知識と呼んできた。しかし改めて見直したとき、そこに残されているのは本当に知識なのだろうか。あるいは、仕事を終えた後に作られた成果物に過ぎないのだろうか。
企業は何を蓄積してきたのか
同じ設備を持ち、同じ市場で競争していても、企業によって成果には大きな差が生まれる。企業価値を説明する上で、資本だけでは十分ではないという認識は広く共有されている。企業ごとの差は、知識、経験、顧客理解、問題解決能力の違いによって生まれると考えられるようになった。
こうした認識を背景に、企業を知識の観点から捉える考え方が広がった。企業は単に資本を保有する存在ではなく、知識を蓄積し統合する仕組みであると理解されるようになった。その結果、多くの企業はマニュアル整備、ノウハウ共有、成功事例や失敗事例の蓄積に取り組み、人の経験を組織の知識へ変えることを目指してきた。
この考え方は企業観を大きく変えた。企業価値の源泉は資本から知識へ拡張されたのである。しかし、知識を企業価値の源泉として捉えた瞬間に、新たな問いも生まれた。知識は完成した状態で存在するわけではない。人々の経験や実践の中で生まれ、他者との関わりの中で変化していく。では、そのような知識はどのように組織の知識になるのだろうか。
知識創造企業という発明
工場の設備保全を長く担当している技術者は、ときに不思議な判断をする。計器の数値は正常で、点検結果にも異常はない。それでも「少し様子がおかしい」と感じることがある。その理由を完全に言葉で説明することは難しい。
営業の現場でも同じことが起こる。経験豊富な営業担当者は、顧客が何を言ったかだけではなく、何を言わなかったか、どこで議論が止まったかまで感じ取りながら提案を修正していく。成功した提案の背後には、資料には表れない数多くの判断が存在する。
こうした現象に対し、ハンガリー出身の科学哲学者マイケル・ポランニーは、
「人は語れる以上のことを知っている(We can know more than we can tell)」 という言葉を残した。人間の知識は、言語化できるものだけではない。実践の中で身につき、本人にも完全には説明できない知がある。これが暗黙知である。[1]
しかし暗黙知の存在を認識するだけでは企業にとって十分ではなかった。重要な知識が個人の経験に埋め込まれたままであれば、その人がいなくなったときに失われてしまう。企業が競争力として活用するためには、個人の知を組織の知へ変えなければならない。
この課題に真正面から取り組んだのが、野中郁次郎らによる
知識創造企業論 である。その意義は、知識を個人が保有する静的な資源ではなく、人と人との相互作用を通じて生み出される動的なプロセスとして捉えたことにある。企業は知識を保管する場所ではなく、知識を生み出す主体として理解されるようになった。[2]
しかし、ここで改めて企業に残っているものを見ると、別の問いが浮かぶ。企業は本当に知識を継承しているのだろうか。それとも、知識とは別の何かを継承しているだけなのだろうか。
「成果物の罠」
「失敗から学べ」と言い、企業に積み上がるのは失敗報告書である。そこには何が起きたのか、なぜ起きたのか、誰が対応するのかが整理される。しかし、本当に知りたいのはそれだけではない。当時何を機会だと考えていたのか。どのような未来を想定していたのか。どの反証が現れていたのか。どの段階で判断を見直すべきだったのか。そうした問いに答えようとすると、必要な情報が見つからないことが少なくない。
この現象は失敗報告書に限らない。提案書には採用された提案だけが残る。稟議書には承認された案だけが残る。中期経営計画には方針と目標が残る。しかし、その背後にあった認識や比較した選択肢は消えていく。議事録には合意事項が残るが、誰の発言によって見方が変わったのかは見えなくなる。
なぜ、このようなことが起こるのだろうか。それは企業が保存しているものの多くが成果物だからである。成果物とは、仕事が終わった後に残される完成品である。提案書も、稟議書も、事業計画書も、議事録も、最終的な結論を説明するために作られる。その過程で、不確実性、反論、認識の揺らぎ、採用されなかった可能性は整理され、削ぎ落とされる。成果物は思考過程の短縮版ではなく、最終的な判断を説明可能な形へ再構成したものである。
もちろん成果物そのものが悪いわけではない。企業経営において成果物は不可欠である。問題は、成果物を保存することで、その仕事から生まれた知識まで保存したと思い込んでしまうことにある。企業は確かに大量の資料を保存している。しかし、仕事の途中で生まれ、変化し、消えていった認識や判断までは残っていない。
だから企業では不思議なことが起こる。過去の失敗を記録しているのに似た失敗を繰り返す。成功事例を共有しているのに再現できない。中期経営計画を残しているのに、数年後にはなぜその方針になったのか説明できない。企業は知識を継承できていないのではない。成果物しか継承していないのである。この構造を「成果物の罠」と呼びたい。
企業は長い間、この罠の中にいた。では、成果物しか残せなかったのは、企業が思考過程の価値を理解していなかったからなのだろうか。それとも、残したくても残せなかった理由があったのだろうか。
AIは成果物の手前の痕跡を残し始めた
同じ文書でも、最終版だけを読むと、その結論は最初から決まっていたように見える。提案書であれば、課題設定から解決策までが一貫した論理でつながっている。しかし実際の仕事では、問いが途中で変わり、有力だった案が退けられ、前提が修正される。最終版には、そうした思考の痕跡がほとんど残らない。
企業が成果物しか残せなかったのは、思考過程の価値を理解していなかったからではない。判断に至る過程を残すには、重要な場面を思い出し、その理由を言葉にし、他者が理解できる形へ整理する必要があった。しかも人は結果を知った後、過去の迷いや修正を一つの整合的な物語へ組み替えてしまう。思考過程を正確に残す負荷は高く、企業は説明や承認に必要な成果物を優先せざるを得なかった。
しかし近年、その前提が変わり始めている。AIを活用する仕事では、どのような問いから検討が始まり、途中で何が修正され、どの案が採用され、どの案が棄却されたのかが自然に記録として残る。会議、チャット、文書、AIとの対話を通じて、これまで成果物になる過程で消えていた情報を後からたどれるようになり始めている。
重要なのは、記録される量ではない。成果物だけを見ていては分からなかった認識の変化や判断の揺らぎが、組織から観察できる対象になり始めたことである。どの事実によって見立てが変わったのか。どの反論によって方向転換が起きたのか。どの選択肢が検討され、なぜ退けられたのか。これまで成果物の手前で失われていた思考の履歴が、初めて追跡可能になりつつある。
もちろん、記録できることと、残すべきことは同じではない。会議の発言やチャットのやり取りをすべて保存するだけでは、企業は学習できない。どの事実が見立てを揺らし、何が判断を変えたのかという関係が見えなければ、膨大な記録は単なる情報の集積にとどまる。
それでも、これは大きな変化である。企業は長い間、成果物しか残せなかった。今、初めて成果物の手前を扱える可能性が生まれている。その可能性を組織の学習へ変えるために、企業は何を資産として残すべきなのだろうか。
答えが変わった過程を資産にする
新規事業の計画書を読むと、その事業は一つの明確な論理によって構想されたように見える。しかし実際には、市場の見方が変わり、有力だった案が退けられ、顧客の反応によって提供価値が見直されている。事業計画書は、その試行錯誤の末に到達した一つの答えである。
最終的な計画書だけを残しても、数年後に理解できるのは採用された答えに限られる。その答えがどのような問いから始まり、どのような見立ての上に置かれ、何を比較し、何を捨てて成立したのかは見えない。会議の録音、チャット履歴、メール、AIとの対話記録を蓄積しても、それらの関係を再構成できなければ、思考の痕跡は素材ではあっても資産にはならない。
答えがどのように生まれ、現実との接触によってどう変わったのかを、組織として再構成できる状態にしたものを「学習資産」と呼びたい。学習資産は、過去の結論をそのまま再利用するための知識ではない。過去の判断が成立した条件を、現在から再検討できるようにするものである。
学習資産の第一の層は、現実をどう見たかである。何を問題と考え、何を事実と見なし、どのような前提から未来を予測したのかという認識の出発点を残す。完成した答えだけでは、その答えを生んだ世界の見方は分からない。
第二の層は、何をどう選んだかである。どの選択肢を比較し、どの案を退け、何を重視し、何を犠牲にしたのかを残す。最終的な結論だけでは、企業がどの未来を選び、どの未来を捨てたのかは見えない。
第三の層は、現実によって何を変えたかである。どの事実が当初の見立てを揺らし、何を修正し、何を維持したのかを残す。判断が変わった理由と、なお解けていない不確実性まで含めて初めて、その経験を別の状況からたどり直すことができる。
学習資産は、これらを記録項目として並べたものではない。現実をどう見たか、何をどう選んだか、現実によって何を変えたかを結び付け、答えが生まれ、変わった過程を再構成できるようにしたものである。知識資産が過去の答えを利用可能にするのに対し、学習資産は、その答えが成立した条件を再検討可能にする。学習資産は、答えを再現するためではなく、答えを疑うためにある。
学習する組織
学習する組織とは、多くの成果物を保管している組織ではない。完成した答えだけでなく、その答えが生まれ、現実との接触によって変わった過程を、個人の記憶から切り離して残せる組織である。問い、前提、選択肢、判断基準、修正履歴が結び付いたとき、過去の経験は初めて、別の人が別の状況からたどり直せる学習資産になる。
AIは、そのための条件を変え始めている。これまで成果物になる過程で消えていた問いの変化や棄却された案を、組織が扱える可能性を開いた。しかし、すべての記録を保存するだけでは学習資産にはならない。必要なのは、答えが変わった過程を再構成し、後から問い直せる形にすることである。
強い会社とは、正しい答えを数多く蓄積した会社ではない。答えだけでなく、答えが生まれ、変わった過程まで組織として残せる会社である。過去の正解を再利用するだけでなく、その正解が今も成立するのかを問い直すために、学習資産は存在する。
しかし、判断の過程を残しただけでは学習は起きない。残された判断を現実と照らし、次の意思決定へつなげる営みが必要になる。その問いについては、次稿『振り返る経営』で考えたい。
注
[1] Polanyi, Michael, “The Tacit Dimension", Routledge & Kegan Paul, 1966, p.4. “We can know more than we can tell.” は、後に暗黙知(Tacit Knowledge)論の出発点となった命題として広く知られている
[2] Nonaka, I. and Takeuchi, H., “The Knowledge-Creating Company: How Japanese Companies Create the Dynamics of Innovation", Oxford University Press, 1995. 暗黙知と形式知の相互作用(SECIモデル)を通じて知識創造を説明した代表的研究
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